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「行いと真実をもって」(礼拝メッセージ)

神様が愛しておられる皆様、猛暑となっていますが、お元気でいらっしゃいますか。
台風や豪雨の報道が続いていますが、関東、佐野や足利でも昨日は大雨でした。
警戒レベル5という地域もあり、被害も出ました。
各地での被害に遭われた人たちに慰めと復旧がなされていきますように。
さて先ほど「カインとアベル」のメッセージを共にいたしました。
私たちの心の全てをご存知の神様は、私たちが神様に背く罪を悔い改め、ご自分を信頼して歩むことをお勧めいただきました。
続いての私のメッセージ、ヨハネの手紙第一3章を取り上げさせていたただきます。
新約聖書で「カイン」を例に取り上げている3つのうちの一つの記事です。
ここはキリスト・イエスを知る人たち、私たちへの愛することの勧めになっています。
「互いに愛し合いましょう」は、クリスチャンの常套句でありますでしょうか。
また教会の中でも「お祈りしています」「心配しています」という言葉が出ます。
言葉はとても大切、傷ついた心を慰め、立ち上がらせる力があるからです。
しかし、今日の聖書の箇所は、さらに進んだ姿勢があります。
使徒ヨハネは、私たちの信仰の核心を突くような、鋭くも温かい勧めを語っています。

3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

このヨハネ第一の手紙は、使徒、ヨハネが小アジアの諸教会に書き送った手紙。
そしてまた今日の私たちへのメッセージでもあります、
ヨハネは「言葉だけの愛」に留まってはいけない、と言っています。
イエスがキリストであると信じている私たちクリスチャン。
私たちが生きるべき「行いと真実の愛」とは、どのようなものか。
そのことをこの手紙ヨハネの言葉からご一緒に確認してみましょう。

3:11 互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。
3:12 カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

ヨハネは11節から12節で「カイン」の例を挙げます。
先ほどのメッセージ、カインは激しい嫉妬と怒りにかられて弟を殺してしまいました。
ヨハネはここで、現代の私たちにも通じる恐ろしい真実を語り、そして忠告しています。そして15節。

3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。

私たちが実際に人の命を奪わないとしても、心の中で誰かを激しく憎んだり、妬んだり、あるいは「自分には関係ない」と完全に無視して心を閉ざしたりすることがあります。
その「心の中の憎しみや無関心」こそが、カインと同じ殺意の根っこであること。
そして自らの霊魂を「死」の中に閉じ込めてしまう歩み様なのだ。
聖書、ヨハネはそう私たちに警告しているのです。
カインが「弟の命を奪った」のとは全く逆の歩みを見せてくださった方がいます。
私たちが信じる神様ご自身が、私たちを「具体的な行い」をもって愛してくだいました。
16節をご覧ください。

3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

神様は天の上から「あなたたちを愛しているよ」で終わりの方ではありませんでした。
それでは私たちの罪の問題は解決しなかったからです。
神様は、イエス・キリストという一人の人間となってこの地上に降りてきてくださった。そして十字架にかかり、ご自分の命を捨てる。
「これ以上ない具体的な行い」によって、その愛を証明してくださいました。
私たちは、この「具体的で圧倒的な愛」で救われ、いまここに生かされていることです。
「ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
イエスの十字架と復活の証人であるヨハネはそこまで語っています。
それが教会にあって愛に溢れた人として尊敬を受けた彼の偽りのない真実な思いです。
それなのに、私たちはどうでしょうか。
17節でヨハネは、非常に耳の痛い現実的な例を挙げています。

3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

ここで言われている「世の富」とは、大富豪の財産という意味だけではありません。
私たちが持っている「時間」「心のゆとり」「健康」、あるいは「誰かを助ける情報」など、今自分が持っている全ての資源のことです。
困っている人を見かけたとき、私たちは「大変そうだな、お気の毒に。誰かが助けてあげるといいな」と、頭の中で同情することがあります。
しかし、自分の時間やお金を削られるのが嫌で、そっと目をそらしてしまう。
ヨハネは、それを「心を閉ざす」と言いました。
そして、「そんな人の内に、どうして神の愛がとどまっているだろうか」と、厳しく問いかけているのです。
では、言葉を「行い」に変えるとは、私たちの日常でどういうことでしょうか。
「例えば」のことでありますが良くありそうなこと。
ある日、一人暮らしの高齢の女性が、大風邪をひいて寝込んでしまいました。
それを知った人の一人の人がお見舞いの電話をかけました。
「本当に大変ね。何か必要なものがあったら、遠慮なくいつでも言ってね。」
彼女は心から心配して、優しい言葉をかけました。
寝込んでいた女性も「ありがとう、でも大丈夫」と答えました。
本当は、熱でフラフラ、大丈夫ではないのですが、申し訳なさで何も頼めませんでした。
優しいことばを掛けてもらえたことはうれしったのですが。
ところが少したって、別の人が、彼女のアパートのドアを叩きました。
その手には飲み物の入ったミニボトルと消化のいい食べ物がありました。
「体調が悪い時は人に頼む元気も出ないと思って。これ、ドアの前に置いておくから、食べられそうなら食べてね。お大事に。」
最初の人の言葉は決して嘘ではなく、心は伴っておりました。
さらに2人目の人は、相手の状況を良く考えた「いま何が必要か」行動がありました。
もちろん、スープと食べ物が、必ず役に立つかどうかは分かりません。
一人暮らしの高齢の女性でも、体調が悪い時の備えは十分な人もいることでしょう。
無駄となり、ただのお節介になることもあるかもしれません。
けれども愛とは、人に対する自分の感情の波や美しい言葉だけでなくはありません。
一歩前に進んで「相手のために具体的に動くこと」。
そうしたことこそ、ヨハネの言う「行いと真実をもって愛する」ではないでしょうか。

3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

私たちは、自分の力だけで人を愛そうとすると、すぐに限界が来ます。
「どうして私ばかりが損をしなければいけないのか」と心がすり減ってしまうからです。
私たち人は、自然に自分と誰かと比較して考えます。
それが向上心のもととなる一方で、劣等感や焦り、されには嫉妬と怒りが生じます。
私たちにはアベルのような純粋な心も、同時にカインのような罪深い心があるのです。
だからこそ私たちは神様の愛、キリストの恵みで心を満たされ続ける必要があるのです。
聖書のみことばを通し聖霊に導かれ、神様を覚え、祈り、こうして礼拝に集います。
そうして私たちの心をおことばと十字架と復活の行いと真実で愛してくださっている神様の愛で満たしていただくのです。
「そのままのあなたを愛している」という神様の愛の貯金が心に満たされている。
そうして初めて、私たちはその一部を、目の前の人に分かち合うことができます。
自分自身が実行不可能である大きなことをする必要はありません。
「いつでも言ってね」といった言葉。
それを一歩進めて、自分自身ができる小さな行いに変えてみませんか。
誰かの話を聞いてあげる時間を設ける、困っている人にちょっとしたお手伝い。
誰かのための具体的な何か。
私たちのその小さな、真実な「行い」を通して、イエス・キリストの温かい愛が、この渇いた世界に証しされていくことになるのです。
その歩みへと、主が私たちを送り出してくださいますように。

 日本のキリスト教未伝地にキリストの福音を急速に伝える為に、1925年(大正14年)まず本州中央部の群馬、埼玉、栃木の3県より伝道を開始したセントラル・ジャパン・パイオニヤ・ミッション(中央日本開拓伝道団、創立者マーガレット・エミー・バーネット師)の働きの結果、各地に起った信者の団体(教会)がそのミッションの教義、信条に基き共同の目的である信仰の純潔を保持し、徳性を養い、福音伝道に奉仕せんが為に結合し、1927年(昭和2年)福音伝道協会を組織した。

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