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イザヤ書46章3~4節「わたしは背負う」
この日本では仏像ブームで、仏像を見るために寺院や仏像展に多くの人が集まります。人々は物言わぬ像に何を見て、何を感じるのでしょうか。神棚や仏像、位牌、あるいは言霊(ことだま)の発想から読経というものがあり、そうしたものに何か特別な霊的なものがあると考えるのが日本の宗教観です。この世界には人が作ったカミもありますが、人を造られた神というものが聖書によって示されています。
人を造られた神様は人である私たちにに語りかける神様であり、さらにはアクションをもって関わってくださいます。
イザヤ書46章3~4節には「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、私は同じようにする。あなたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」とあります。私たちが母親のお腹にいた時から、やがて年老いて白髪になるまで一生涯の間、助け導いてくださる神様です。様々な困難に押しつぶされて歩けない時にも、神様が自ら私たちを背負って歩いてくださるのです。
そんなことあるのでしょうか。神様が私たちに語ってくださる言葉というのは真実な約束です。虚しい絵空事ではないのです。絶望の時にも神様が私を背負ってくださった、歩けない時は私を運んでくださった、そのような感動を私たちの人生を通してあらわしてくださるのです。
満たされない心の穴を埋めるため、心の支えにするため、あるいは自らの欲の現実のためにカミを作り出すのではなくて、生きて人を救おうとする神様を見出すことができればどんなにか大きな喜びとなるでしょう。私たちは心が曇っその神様が見えないようになってしまいますが、その雲った心をクリアにしてくださるのが、キリストによる十字架の救いです。どんなに曇った心でも十字架の救いの力によって私たちの心の目を開いてくださるのです。
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